箱庭療法記

人々がきらきらする様子に強い関心があります。

171030 さよなら私のソーシャルゲーム

 ソシャゲが終わった。
 GREE版のアイドルマスターミリオンライブ!が年末をもって更新を停止すると本日発表された。
 はっきり言ってしまうが、Twitterへの投稿から察せられるように、ちょうど1年前からゲームをプレイしていなかったから、騒ぎもどこか遠くの出来事に思える。知らない設定もきっと開陳されたんだろうし、あれだけ熱心に埋めていた音楽ライブラリに歯抜けが増えたことだけは確かだ。ソーシャルゲームの更新停止が決まったタイムラインは、沈鬱になる人や、思い出話に花を咲かせる人に溢れていて、葬儀が残された者のための儀式であることと似ている。その意味では私はもう去ってしまった人間なのかもしれない。
 たびたび書いているように、私はアニマスの映画から入って半年以上ゲームをしないまま(カードの画像と台詞はwikiで調べてCDだけ聴いて)二次創作をやっていたから、ゲームのゲームそのものへの思い入れが薄い。ホームだったとは言えない。それでもゲームを始めたのが2014年の晩秋、触らなくなったのが2016年の同時期だから丸々2年は遊んでいたことになる。
 こんな機会だからミリオンライブのゲームの楽しかった思い出なんかを振り返ってみると、楽しかったのはイベントを走ったりガシャを回したりすることそれ自体より、むしろ知人らと競ってイベントを走ったりTwitterでガシャの結果に一喜一憂する様を実況したりしたことだった。あるいは、イベント最終夜のバイト帰りにランキングを確かめたらボーダーから転げ落ちていたせいで、実況する余裕もなくひたすら課金して、一息付いてTwitterに結果を貼ったり(いま見たら1176位だった(お世辞にもテキストの出来が良かったとは言い難いがいい思い出だ))。あとは月並みだけどアニバーサリーイベントかな。Skypeで通話しながらだらだらと走ったのは、あれは学生の特権でしたね。いまなら時間を金で買うだろう。
 ソーシャルゲームだった。
 ゲームを遊ばずに二次創作を始めて、いまも遊んでいないが、そういう来歴を経てわかったことがある。ソーシャルゲームは人と遊んでこそのゲームだった。同じ場で同じ対象を見ながら、同じだったり、大概はそうなのだが、違う事柄について語らう。あのゲームはイベントのたびにいちいちカードをたくさん出してくれるし、べらぼうなテキスト量もあった。いいゲームだったかどうかは議論の余地があるだろう。いいアイドルコンテンツだったかどうかは首肯しかねる。首肯してたら小説なんかやってないしね。それでも、いい場ではあった。私にとってはいいソーシャルゲームだったんだろう。
 ありがとうなんてぜってえ言ってやらないけれど、なくなるって決まるとやっぱり少し寂しいね。
 さよなら。

171022 台風が来る。景色が変わる。

 台風がやって来ても嬉しくなくなったのはいつからだろう。THE BLUE HEARTSが台風の暴力性とその快感について高らかに歌い上げていた。高校生の頃は大雨の日にいつも聴いていた。
 そういうわけで今日は、本来予定していた免許更新に行くことができずに引きこもっていた。4年前の更新からハンドルを握ることもなくゴールド免許の資格を手に入れ、その代わりに運転技能を失った。ゴールドドライバーは引きこもって欅坂のパフォーマンスを観ていた。昨夜のNHK特番の新曲フルサイズ。ユニット「五人囃子」の新曲「結局、じゃあねしか言えない」の佐藤詩織のピルエットがさすがバレエ経験者だけあって美しく、回る彼女を何度も何度も観ていた。足の裏の支点の上に伸びる仮想的な回転軸と脚の実体とが一致するとすげえ綺麗なんですよ。回る瞬間に少し体が浮き上がるのはそういう理屈で、つま先を伸ばして脚をまっすぐにしようとするから。体重移動も軽やかで、ステップも一歩が大きくも落ち着いていて。バレエ経験者のいるユニット曲にターンの多い振り付けを割り振るのは理に適っている。五人囃子は衣装もダンスとマッチしている。全国ツアーのそれと同じ衣装(幕張の「少女には戻れない」のダンスで、ゆったりとした回転でスカートの裾を円形に広げながらステージ上の段差を滑る佐藤詩織と、彼女の回転を上から映したモニター映像に大興奮したのはまた別の機会に残しておこう)のシースルーのロングスカート。シースルーのロングスカートで踊るのは、おそらく透けないロングスカートもしくはパンツで踊るのより綺麗に見せるのが難しいだろう。裾の広がりの綺麗さだけではなく、透けて見える脚の美しさも要求される。奇しくも昨日の「シブヤノオト」で石森虹花が「風に吹かれても」をスーツで踊る難しさについて同じことを言っていた。つまり、パンツ衣装は脚を誤魔化すことを許してくれないと。したがって、シースルーのロングスカートで踊ることには二重の技能が求められる。佐藤詩織はあまりに美しくやってのけた。素晴らしいものを見せて頂いたなあと、感謝していたら昼が昼下がりになっていた。綺麗な脚裁き自体はバレエを観賞すれば目にすることができるけれど、メンバーの全員がダンスの専門的な訓練を受けているとは言えないアイドルグループのダンスで(ということは優秀な振り付け師がいたとしてもどうしても不揃いさが顕れてしまうダンスで(不揃いさもまた魅力であるという話は別として(実はそれこそが肝であるのだが)))ふとした瞬間にこうしたまっすぐな美が立ち上がってくると、彼女らの背景の多様さが香ってきて、ああ、アイドルのファンになってよかったなと感謝の気持ちが芽生える。感謝の念が芽生えました。ありがとうございました。
 と、思ったより興が乗ってしまったからオチてしまったのだけれど、佐藤詩織とピルエットと感謝に加えて、あともう一つ書いておきたいことがあってわざわざブログの画面を開いたのだった。
 嵐の中で近所のラーメン屋に行った。時系列としては前段より1時間くらい前になる。麺はうまくもなくまずくもなくで別にどうでもいい。重要なのは店内音楽だ。えらく聞き覚えのある歌声がスピーカーから聞こえてきた。歌手と歌詞から曲名を調べると菊地真我那覇響の「ブルウ・スタア」。つい先日出たばかりのミニアルバムの曲。きちんと追ってなかったから(理由は敢えて書くまいが)曲調さえ把握していなかったのだが、いや、だからこそグルーヴィな曲調が耳に残った。音楽体験として得難くアイドルソングらしい体験だった。台風でジーンズの裾をズブズブに濡らしながら入った開店直後のラーメン屋。やや外したかと軽い後悔を覚えながらメニューを熟読していると、耳に入ってくるのは僕の知っている歌声の僕の知らない曲。歌詞を調べて「あっ、新曲出したらしいけどこんな曲なんだ、やるじゃん」って。麺を適当に啜って会計を済ませてイヤフォンを耳に詰めて傘を開く。「19のときは真ちゃんのこと大好きだったなあ」なんて思い出しながらスマートフォンのミュージックアプリで彼女のソロ曲「絶険、あるいは逃げられぬ恋」を選択。彼女のキャラクター性、もっとざっくばらんに格好良さに寄り添いながら、しかし彼女の内面とは適切な距離感を有した一曲。「いい曲もらってたんだなあ」って、その数分間だけ過去にトリップする。自然と他のアイマス楽曲を選びながら部屋まで帰る。部屋に帰って前夜のNHKのアイドル特番を観直すことを想像しながらもイヤフォンからはアイマス楽曲。
 アイドルマスターがシームレスに『アイドル』として(『ゲーム』ではなく)生活に確かに存在してくれた。
 台風の大雨が嬉しくなくなっても、嬉しいこと、感謝すべきことはいくらでも見つけられるようになるんだなあって。そんな一日でした。

170806 おしらせ

 物語は情報や報告のように純粋にそのこと「自体」を伝えるものではない。物語はそのことを語り手の生の中にいったん沈めてからもう一度取り出す。だから、陶芸家の手の跡が陶器の皿に残るように、語り手の跡が物語に残るのだ。
――ヴァルター・ベンヤミン「語る人」

 

 C92の新刊『アイドルのための物語』を入稿しました。そちらについてはトップの告知用のエントリをご参照下さい。このエントリは別件についてのおしらせとなります。

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170731 原稿って書けない

 原稿が書けない。もうダメだ。あと、twitterを見てる方はご存じかと思うけど欅坂46に一瞬でハマった。twilogによると5月14日に「二人セゾン」のMVで殴られて以来、6月7月と欅の話しかしてない。あとたまにアイマス。SFとは、幻想とは……。ついに7月22日、23日に欅の富士急ワンマンに行った。女性メジャーアーティストのライブは初めてだったが、爆発的なエネルギーに圧倒されていた。ライブの感想をまとめたいのだけれど、原稿のプレッシャーに狂いつつあるからまた落ち着いたらtwitterやメモを参照しつつやっていきたい。

 原稿って、書けない。