箱庭療法記

人々がきらきらする様子に強い関心があります。

13/10/24

 BEATLESSについて他メディアを絡めながら適当に。

 BEATLESSの結末ってザックリまとめるなら「ヒトとモノが手を取り合って生きていきましょう」*1になるんだろうか。前回の記事で私は「機械と共生する未来が待ち遠しい」と書いたけれど、漫画版メダロットってまさにそういうテーマだった。初代から最終作Gまでは地球人と異邦人の交流として読める。「おともだちロボット」なんてポップなコピーをつけていたけれど、本筋は「エイリアンを畏れ、争い、共に生きる」にあったと思う。初代では兵器としてビーストマスターが猛威をふるうし、2では単なる道具だったはずのラストが自我を得る。自我を持ちヒトに敵対するメダロットが描かれたと思えば、敵対は悪意によるものはなくて単なる進化の一例だと論じられたりする。ラストシリーズのGでは、超長寿命なメダロットとヒトとの寿命の差が発端となって事件が起こる。

 おもしろいのは、4まではメダロットとヒトの違いをダークに描きながら、一転して5とGでは両者は宥和の先を見据えて共に生きていけると楽天的に結論付けたところ。寿命の差がテーマになる背景には、死に至るまでの生涯を共にする前提が存在する。「おともだちロボット」のがヒトと違うことを口酸っぱく語りながら、最後には『そう簡単に答えは出ないけど オレ達の今は とりあえず楽しい』*2とポジティブに幕が引かれる。

 BEATLESSですよね!!!!!

 

 アルペジオの世界にレイシア級をぶち込むよりはhIEの世界に霧の艦隊をぶち込む方がたぶん楽しそう。霧の艦隊がメンタルモデルを持つ主な理由って「時間概念の獲得」(≠ヒトのかたちの模倣)だから、ヒトのかたちとしてヒトに似せて作られたhIEとはコンセプトがかなり違うと思う。アルペジオでは話が進むにつれてメンタルモデルたちが感情や予感を実装することでヒトのこころを模倣し始める。政治まで行うようになるし。つまり、humanoid Interface Elementsであることはmentalmodelであることの必要条件だけれど十分条件ではない。だからもしもクロスオーバーを考えるならば、「かたち」を愛することが日常になった世界で、ヒトのかたちとヒトのこころを持ちながらヒトでないメンタルモデルが脅威として差し迫る、というのがありそう。

 あんまり関係ないけど、リョウやケンゴのhIEへの嫌悪感の原因のひとつに「hIEと同列に扱われることに耐えられない」ってのがあった。これって哲学的ゾンビと同格にされたくないってことなんだろうけれど、哲学的ゾンビたるhIEではなくこころまで実装されたメンタルモデルだったらどうなんだろう。

 

P.S.

レイシアに膝枕してほしい

*1:「boy meets girl」とかレイシアの「人を信じる」とか

*2:メダロットG (2)』最後の台詞