箱庭療法記

人々がきらきらする様子に強い関心があります。

13/11/07

 気付いたら21歳になっていた。先週の話だ。どんどん歳を取っていく。

20歳になった時のことを思い出した。15歳の頃に好きだったマンガでは家庭的な17歳のヒロインが「~さんじゅうななさい」と笑われていた。20歳にとって17歳はもう遥か年下だ。少なくとも「年上のお姉さん」として憧憬できる年齢ではない。それが昨年。

 今の私は21歳だ。いまや「サークルの女先輩」の灯火は消えようとしている*1。最後の砦は職場の女上司か、しかし大学院への進学を決めている私が就職するときには25歳だ。30歳に近い「憧れの女先輩」は生々しい影を帯びる。万が一にも博士課程に進んでしまったら一貫の終わりだ。学部の先輩?そんなものは存在しない。私の専攻は男所帯だ。 そういえば9月から異性と会話らしい会話をしていない。同期とは上手くいかなかった。サークルから抜けてしまったし、同好会の女性とは犬猿の仲。お姉さんの夢を見る前に足下を見よう、手詰まりだ。

 

 思い返してみれば私は一人でいることに最適化されすぎた。いまの私はお姉さんを幻視できる。瞼の裏に姿が見える、静寂から声が聞こえる。他人とのふれあいの目的を思考の多様性を確保するためだと割り切ってしまうなら、私は代わりに本を読める、ニュースを聞ける、チャットができる。他人が眼前にいなくても多様性は確保できてしまう。目的論に傾きすぎた結果がこの有様だ。

 きっと男女のつがいで共同生活を行ってきたのは生存の確率が上がるからだろう。然らばパートナーを持たない私は単独で生きる術を模索すべきだ。この数年はそんな発想で暮らしてきた。ところが、つがいで生きる理由の推測にさえ実利しか見えていない。そこに愛があるからだ、という推論に至ることができない。愛を教えて下さい。

 他人に関心のある振りをしながら、本当は他人のことなんてまったく考えようとしていない。複雑な関数を想像してほしい。そうあるべき人間は丁寧に式を追いかけて関数の性質を見つめるのだろう。私は関数から出力される値さえあれば十分だと思っていた。

 つがいで生きる理由が愛であろうと実利であろうと、それが主流だということはそれがとにかく有利に働いたことに他ならない。私はひとりになってしまった。間違いなく生存の確率が下がってしまった。不安だ。怖い。助けて。

*1:サークルから離脱してしまった私にはもう無縁の話だが