箱庭療法記

人々がきらきらする様子に強い関心があります。

220916 ブンカジ練習問題⑦-1

四〇〇〜七〇〇文字の短い語りになりそうな状況を思い描くこと。何でも好きなものでいいが、〈複数の人物が何かをしている〉ことが必要だ。(複数というのは三人以上であり、四人以上だと便利である)。出来事は必ずしも大事でなくてよい(別にそうしても構わない)ただし、スーパーマーケットでカートがぶつかるだけにしても、机を囲んで家族の役割分担について口げんかが起こるにしても、ささいな街中のアクシデントにしても、何かしらが起こる必要がある。
今回のPOV用練習問題では、会話文をほとんど(あるいはまったく)使わないようにすること。登場人物が話していると、その会話でPOVが裏に隠れてしまい、練習問題のねらいである声の掘り下げができなくなってしまう。

問一:ふたつの声
①単独のPOVでその短い物語を語ること。視点人物は出来事の関係者で――老人、子ども、ネコ、何でもいい。三人称限定視点を用いよう。
②別の関係者ひとりのPOVで、その物語を語り直すこと。用いるのは再び、三人称限定視点だ。


 北村は、向かい合って立つ豊田に一本の棒っ切れを下手から投げた。五センチ弱×五センチ弱×五十センチの木製の棒が何の樹種なのかは北村は分からない。分かっているのは、鴨川の左岸を走る人々にとっていま自分たちがかなり奇異に見えているということだけだ。
 北村の耳には、鴨川のせせらぎ、右岸から聞こえる金管楽器の調べに加えて、大川がノコギリを力強く操ってツーバイツー材を切断する音が届く。川はすべてを許容すると大川は主張していたが、DIYまで許容されるのだろうか。ノコギリの音が止み、北村は大川からトスされた新たな棒っ切れを受け取る。
 一本の棒の時の倍のテンポで二本の棒を豊田と「やりとり」する。二人の手の数よりも少ないのだからこれは「ジャグリング」ではなく「やりとり」であると北村は思う。北村と豊田にこの一連の「やりとり」を命じた大川がなにを思っているのかはよく分からない。分からないことだらけだ。やがて三本目がトスされ、二人の間に三本の棒っ切れが行き来して、北村はそのアップテンポの心地よさに「ジャグリング」が芽生えた音を聞き取ろうとする自分を発見した。

 


 川辺のベンチの上に足で固定したツーバイツー材にノコギリを沈み込ませながら大川は黙考する。ジャグリングの道具がプラスチック製の大量生産品であることに疑いを持つべきだ。舞台が文字通り舞台の上であることに疑いを持つべきだ。そもそも最初から道具が揃っていることに疑いを持つべきだ。
 ありありと疑問符を浮かべたままで一本の棒(大川には十分過ぎるほど「道具」だが)をパスし合う北村に二本目の棒を投げて渡す。北村と豊田は二倍の物量に対応するために二倍の速度で手を動かす。それだけではまだ誰も気付かないだろう。投げている当人も、観客たる通行人たちも。大川は二人のテンポに合わせてノコギリを前後運動させる。道具と一体となることは本質的にジャグリングであると大川は思う。いささかジャグリング帝国主義が過ぎるだろうか?
 三本目を投入すると北村の気配が変わった。ジャグラーにとって三とは特別な数字だから。手の数である二より一だけ多い三は、ジャグリングを構成する(と多くのジャグラーが主張する)最少の単位である。もっとも、大川にとっては最少の単位は一だが。
 四、五、六と数を増せば通行人にもこれがジャグリングだとわかるだろう。七、八、九と積み増せば彼らは足を止めるだろう。
 では、今度は一へ向かって減らしたら?

 

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「ジャグリング帝国主義」ってワードが面白いと思って書いたんですが、ここで引っかかる方が多かったので反省。SF帝国主義と同じニュアンスです。