箱庭療法記

人々がきらきらする様子に強い関心があります。

240505 萌えるシチュエーション

『成瀬は天下を取りにいく』(宮島未奈)を読んでいる。本屋大賞を取っているからにはマストリードだろうと読んでいるが、いまいちピンと来ないまま後半に至ってしまった。

どこがこんなにピンと来ないのだろうと考えていた。本作で提示されている「面白」が私の好きなそれと大きく異なっているからだろう。
本作の面白は、

  1. 主人公・成瀬あかりが(冷静に、自分らしく)突飛なアクションをする
  2. 周囲の人物がリアクションを重ねる
  3. 成瀬は冷静に成瀬であり続けてアクションする

……という構図にある。この構図がその場の面白会話、ノリ、ビートによって展開されていく。一言で言うと、この構図に萌えない。というか、小説で面白会話を読むことに萌えないんだと思った。
なぜ萌えないのか考えてみたのだが、私の萌えは、むしろ普段着での応酬にあるのだろう。誰もヘンなことを言っていないのに会話が噛み合わず総体としてはヘンなシチュエーションが展開されてしまう。そのシチュエーションに対してリアクションを重ねられ、そのリアクションの中でさらに噛み合わず……が繰り返されて、普段着からは想像できなかったような世界に飛翔してしまう、そういうコミュニケーションに萌えるっぽい。
たぶん、私がお笑い(特に漫才)から一定の距離を置いていたことと関係があるのだろう。さらに言えば、私がしゃべりそのものを得意としていないことと密接に繋がっているだろう。しゃべりが不得意なので、しゃべり主体で展開される漫才を見ると、どこか居心地が悪くなる(コンプレックスが刺激されるのかもしれない)。

おはなしよりもレゴブロックでひとり遊びする方が得意なキッズでした。

そういう意味で、私のエンタメ適性は、ミステリにある気がしている。書き手としては構造に凝った小説を書くことが楽しくて小説を書いてるところがあるし、これはそのまま読み手としての萌えが構造にこそあるということでもある。
この「構造に凝った小説」はミステリのそれと近いのだろうが、どうしてもミステリに食指が伸びないのだ。解けるものとして提示されたパズルが解かれることに萌えない。
型としてミステリが援用されているエンタメは好きなのだが……。この辺は、思春期に読み手としての好みが確立されたのが、伊坂幸太郎の初期作品だった、ということと無縁ではないのだろう。伊坂は青春小説をやるためにミステリを使っているが、本格ミステリではない(その意味で私は『ゴールデンスランバー』あたりのミステリを使わずにサスペンスに全振りした作品が好きではない(苦手、ではなく、好きではない))。

こうして書き連ねてみて、ストライクゾーンが狭いな……と反省した。