完読。必然的にネタバレを含みます。
『青春ブタ野郎』シリーズ大学生編について、これまで幾度もあちこちで表明していた疑念があった。
「大学生は「思春期」なのか?」
私は高校を卒業し、大学を卒業し、大学院を卒業し、今では三十超となり職場では「次世代のエース」(しばらく前までいがみ合っていた隣の課の方からマジでそう紹介されました!)と呼ばれる程度には働いている。本シリーズを読み終わって考えてみた。
私の「思春期」はいつ終わったのだろう。
ぼんやりと思い出してみると、高校三年生の夏までだったように思う。当時の私はそれなりに猛烈な受験生で、さらに苛烈な受験生となるべく、その夏にいろいろな物事を意識的に手放した記憶がある。部活から本格的に身を引き、恋愛SLG(狂ったように遊んでいた)と明確に一線を引き、ツイッターのアカウントも縮小した。
彼らは私を(当時住んでいた)田舎ではない「どこか遠く」に連れて行ってくれると信じていた。でも、そういうものに身を委ねるのを止めた。自力で行くしかないと悟ったのだった。
あの夏に高校生のようなものを置いてきた。
大学に進学してからは、まあ、例によってサークルに本格的にコミットし、恋愛SLGにのめり込み、ツイッターのアカウントは拡大の一途を辿った。ただ、高校生の頃のように「どこか遠く」へ行きたいと思うことは減った。そんな風に今は思い出される。当時どうだったか知る術はもうないが。
あの「どこか遠く」へ行きたい、が私の思春期だったのだろう。
さて、『青春ブタ野郎』シリーズ。
本シリーズの「思春期」(における悩み)の定義は、登場人物によって異なる。大学生編になると、彼らのほとんどがこう言う。
大学生にもなってまだ「思春期」とか言ってるのかよ――
それなりに年齢を重ねた読者には自明であるし、あるいは大学生になれば、まあ普通にわかることではある。にもかかわらず、咲太は「思春期症候群」に拘泥する。その拘りこそが大学生編のキーだった……のだろう。言い換えると、咲太はいつ「思春期」を終えるのか、が大学生編のキーだった……はずだった。
大学生編は『迷えるシンガー』、『ナイチンゲール』、『サンタクロース』、『ガールフレンド』および『ディアフレンド』の五巻からなる。
(ここからしばらく愚痴が続きます)
正直に書くと、『迷えるシンガー』『ナイチンゲール』は酷かった。読んでいて心が折れた(折れかけた、ではなく、折れた。フルコミットすると宣言していなければ投げていただろう)。いつまで経ってもそのキーに近付かないのである。
『迷えるシンガー』では、大学生になった咲太の周囲に様々な新たな人物が現れるが、彼らの誰もが魅力にやや欠け、その割にはメインを張るのは高校生編からの登場人物である。
『ナイチンゲール』は、思春期を引き摺る友人を助ける、のだが。その友人もポッと出感が漂う。本シリーズの根底には、思春期に特有の「他者」を理解する困難さだったり他者と自己との境界の曖昧さだったりが通底していたと思っていた。けれども、大学生編で思い知らされた。物語世界にはもうその他者が残っていない。高校生編の登場人物の思春期症候群は解決され、彼らには物語をドライブするポテンシャルが残されていないのだった。頼みの大学生編の登場人物には、ドライブする因縁が足りない。そう感じていた。
(愚痴終わり)
『サンタクロース』から潮目が変わり始めた。ようやくキーが見え始めたのである。タイトルからして、ある年代の終わりを指すイメージである。かなり強引だったけれど、キーにアプローチし始めた。
『ガールフレンド』『ディアフレンド』は頑張った。掛け値なしに良い出来とは言い難いが、主人公である咲太がそのキーを意識し、答えを出してくれた。作者は大学生編を立て直すことに成功した。
思春期は必ず終わる。
その終わりに彼自身がようやく答えを出してくれたのだった。彼の終わらない「思春期」を終わらせるのは彼自身であり、それを促すのは彼によって思春期を無事に終えることができたメインヒロインであり、そのようにきちんと幕が閉じられた。
思春期の終わりを自ら宣言したが、そこで得られた経験だったりは捨てたわけではない。ありきたりなメッセージではあるけれど、そういう、思春期という特別さを求めた時期を終えて、ありきたりさに回収されること自体が本シリーズだったのではないだろうか。
まあ、とにかく、無事にきちんと幕が閉じられて、私は胸を撫で下ろしています。いいところも悪いところも明確なので、アニメはきちんと修正してきてくれるのではないか、期待できるものになるのではないか、そう信じております。
(終わり)