箱庭療法記

人々がきらきらする様子に強い関心があります。

231210 『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』(2回目)感想 #青ブタ

映画『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』(監督:増井壮一)観ました(2回目)。

@109シネマズ湘南

今日はいわゆる「聖地巡礼」をしてから映画を観ました。七里ヶ浜江ノ島、藤沢でした(この記事も咲太くんと古賀ちゃんらのバイト先の元になったファミレスで書いています)。

江ノ電藤沢駅

朝イチの七里ヶ浜

江ノ島の麻衣さん

いわゆる「聖地巡礼」は今回のみならず今夏にもやっていて、その時は彼らの自宅のある住宅地の手前と、七里ヶ浜江ノ島を歩きました。

そういうの踏まえて、初見時の感想で書き漏らしたことから書きますが、本編の最序盤で、峰ヶ原高校からの帰路に就いた咲太くんと麻衣さんのシーンの手触り感がグッと増しました。なにかって、峰ヶ原高校から自宅までって相当の距離があるんですよね。たぶん、40~50分くらいあると思う。

江ノ電の乗り降りは少なからずバタつくし、藤沢駅から住宅地までもちょっとした距離があったりして、そういう道のりを二人で話し込みながら歩いたんだろうなあ、とか、話しのタネに困って沈黙に見舞われることもないんだろうなあ、とか。実際歩いたことで距離感がわかって、彼らの生活を感じた。

それで、2回目の感想。

細かいニュアンスをもっと拾えるようになった。

大人たち(スクールカウンセラーの友部さんおよび咲太くんの父親)は、咲太くんが母親に対してアンビバレントな感情を抱いていることを薄々わかっておりつつ、彼自身による気付きを期待している。その気付きとは、彼の人間的な「成長」と言い換えてもいい。

一方の麻衣さんである。彼女も咲太くんと同様に親元を離れ、咲太くんより何歩も先に進んで自力で生活費を稼ぐことができる、似たもの同士でありながら、彼女の方が大人である。それでいてまだ学生な、半分大人である。そんな彼女は、彼の側に立って、気付きを促してあげることができた。

大人たちが待ってあげて、彼女が手を差し伸べてあげて、二本の支えがあって咲太くんは、彼自身を大人になったと認めてあげ、成長することができた。「大人になった」ことを自覚することは、それまでの自分が「子供だった」ことを認めることでもある。家事を行い妹・花楓の面倒を見て自活しつつ(大人である彼)、母親を意識の外に追いやりむしろ心地よささえ感じていた(子供である彼)とは表裏一体であり、その両面を認めることで、彼は初めて成長できた。

今回の観賞では、そういう、大人になりつつ子供でもある彼の両面性を特に感じられました。

たぶん、今回の観賞ではスクールカウンセラーの友部さんに一番近い視点だったんじゃないかな。

ところで、初見ではラストシーンにおける父親の不在に違和感(両親が揃っている家庭であるにもかかわらず、父親抜きで「家族になった」とは?)があったが、今回はその違和感を解消することができた。

つまり、父親は息子の母親(妻)に対するアンビバレントな感情におそらく気付いており(息子と母親(妻)との目が合っていないことには間違いなく気付いているであろう)、ゆえに、父親の家の鍵を渡したのだろう。父親自身が不在のときであっても、息子が自らの意志で母親に会い、母子の問題を父親抜きで解決できるように。父親にとっては、母子の問題は母子の間でこそ解決しなければいけない問題であって、父親が関与しても本質的には解決しない問題である。ということを、ある意味では、息子を信頼して、その解決を彼に任せていた。

一言で言うと、父子の間には既に信頼関係が構築されており、「家族」だった、と。そのようにして、初見の違和感は解消されました。

二回目の最大の発見ポイントはそんな感じ。

あと、咲太くんと麻衣さんがもう「寝て」いるのでは?という感触がありました。彼女が彼の傷口に触れるシーンで、彼女の、有り体に言って、「性欲」を私は感じて、一方の彼も、彼女から発せられた空気を自然なものとして受け止めていた。普通に性行為をしたことのある男女の空気感でしょ。観ながらそう感じ取ってしまい、メチャクチャにニチャニチャした笑顔になってしまいました。

 

さて、『ランドセルガール』の本編終了後には、大学生編の映像化が発表された。

信頼できる友人によると、大学生編の原作は、スジがよくないらしい(というより、高校生編の『ゆめみる少女』で物語が終わっている、と(それには私も全面的に同意する))。物語をドライブさせていた牧之原さんの「追放」によって、物語から因果が失われてしまった、と(それにもやはり、全面的に同意する(『おでかけシスター』および『ランドセルガール』は、ボーナストラック、エピローグである))。

その彼女の「追放」について少しだけ考えたのでまとめておく。

牧之原さんの「追放」については、私は(シリーズをもう一段階上のステージで続けるつもりならば)、必然であって、彼女が咲太くんに及ぼしていた「思春期症候群」という因果を彼女から取り戻し、別の登場人物らに薄く広く割り当て直し、その上で、また回収し(濃度を高めて)、新たなビジョンを作り直すのがよかったのではないだろうか(つまり(まだ読んでいないけれど)大学生編で新たに登場人物を増やすよりむしろ、既に存在する登場人物らの「因果の再定義」を行うということだ)。

私は『青ブタ』シリーズが続いてほしいので、シリーズをもう一段階上のステージで続けるつもりならばこうだろう、というアイデアを考えたいが、実はやはり、牧之原さんが解決した段階でシリーズを完結させてよかったのでのかもしれない、とも思う。

いずれにせよ、綺麗に終えることができたはずの物語を商業的な要請によって終えることができない――ライトノベル作家とは因果な職業だな、としみじみと感じ入った。