箱庭療法記

人々がきらきらする様子に強い関心があります。

240219 「快」について

なんとなく刺さらなかった漫画やなんとなく刺さらなかった小説についてふと感じたこと。後者は月報にも。

気持ちよさの根源は非言語か言語か

『呪術廻戦』について先輩が「非言語的な気持ち良さを一番重視するところが好み」と述べていた。最近の『呪術廻戦』に対して私は素直な読者ではないので、自分の好みについてちょっと考えてみた。なお、ここでは『呪術廻戦』自体の話はしない。

私は先輩とは逆で、物語では「構成」に美を感じたい(重視している)のだなとしみじみ思った。ここでの「構成」は、スタティックで言語的に表現できる構築物、くらいのイメージ。

物語の中で提示された要素がピタリピタリとハマっていくことに快感を覚える。因果関係が描かれていて(明示的よりも暗示的な方が好きだ)その因果関係を受け手であるところの私が咀嚼して、自分の中で再構築できるとエクスタシーを感じる。ここでのエクスタシーとは「伏線が回収されると嬉しい」よりも広い意味合いだ。好みは言語的なものなのだが、思うに「伏線」という言い方は言語的過ぎる。言語的なロジックに限られず、視覚的な表現であっても、原因があって結果が導かれる(広い意味での因果)ことは当然にある。その因果が絡み合う姿の構造を透視できると大変に気持ちいい。

私はSF読者よりもミステリ読者をやっていた方が気持ちよさの頻度が高かった可能性はある。最近書いている〈自分の小説〉もSFの体裁を取っているが、作られ方はミステリに近いだろう。

だが、当たり前のことだが、ダイナミックな表現を備えているとなおよい。その意味で、観劇はかなり好きだった。私の好きな演劇は、優れた脚本(スタティックさ)の上に作られる。その前提があって、大前提で、身体性(ダイナミックさ)が乗っかってくる。頭の中で「次はどんな因果が待ち受けているんだろう?」とワクワクしながら、目の前で役者が演じ続ける緊張感に浸れる。大筋は静的に決まっているが、身体的に動的に表現される。なんと贅沢な時間だろう。

人間賛歌のテーマ

私は基本的に人間賛歌が好きだ。

人間賛歌の中でも、ネガティブからスタートして、ネガティブの中にポジティブを見つけ出す物語と、ポジティブからスタートして、ポジティブをいったん喪ってから再び手に入れる物語とがある。私は後者が好きだ。噛み砕くと、最初は良くても次第に悪くなっていって、でも最後は大団円!な物語だ。

別の観点(これは私の人間観だが)から言えば、人は誰しも何らか大切なものを喪っている。既に喪っているという状態だ。物語の登場人物に喪失が予め組み込まれていると(ネガティブからスタート)どうしても「それはそうだろう」と感じてしまう。素直でない受け手なのだが。

それよりも、持っている者が大切なものを喪う物語の方がが好みだ。その過程に物語的なダイナミズムがあるし、大切なものを取り戻す(あるいは全く新しいものを手に入れる)過程は最高だ。「喪う」「取り戻す」という動詞形であることにダイナミズムの根っこがあるだろう。